純粋な思いとは別に、「いい人に思われたい」「嫌われたくない」など、他の思いが込められているのであれば、それは不純な布施であり、報恩施(恩返しのためにする布施)というのかと思います。
(*前回の記事)
この倶舎論の話には続きがあり、お世話になっている大先輩に、よい土産とばかりに送った品を、自分はいらないからと他の人に渡された。
そのとき、自分の心は何を思うのか。
「ありがとう」の言葉を期待していたのであれば、純粋な思いとは別に、「わが身かわいい」また「自己満足にすぎなかったのではないか」と。それを、不純な布施と言っているのかもしれません。
スピリチュアリズムの現場でも、「自分がやりたいならただやる。そして、その行為の結果は手放しましょう」とあります。加えて、「完璧を目指すのではなく、どんな自分の卑しい心でさえ、それを認め、許し、愛してあげましょう。そして、次につなげないように、そこから学びましょう」ともあります。自分を愛し、認める行為は、不純な思いを手放すことにつながるものかと思います。
倶舎論の教えには、” 何かを期待し、見返りを求めての行為は、自分も苦しいですよね。また、相手にとっても不純な思いが込められたものは、あまり嬉しくないですよね ”とも教えてくれているように感じました。
自身の解釈が間違っているかもしれませんが、自分が恩返しをするとき、何を思い、どういう人になりたいかと、自分だけの答えを見つけていくことが大事かと思います。