仏教も神道もどちらがいい悪いは、ないものかと思います。
「幼い子供が亡くなり、その両親は仏教信者であったため、子供が極楽浄土に行けるようにと朝と晩、お経を上げて冥福を祈っているとのこと。しかし、その子供の守護霊(指導役)は、それが甚だ迷惑、何とかよい工夫はないかと悩んでいたとのことでした。守護霊は両親の夢枕に子供を立たせ、神さまに仕える身であるから、お経をやめるよう伝えたところ、お経ではなく、清らかな祝詞がひびいてきた」とあります。
「亡くなってから混乱しているものにとっては、はじめは極楽浄土の夢なりと見せて仏式で修行させるのもよいであろう。しかし、この子には、そのような方便は必要はない」と守護霊は言います。
夢となりとおっしゃるように、仏教が説く極楽浄土ではなく、純粋な子供には霊界のあるべき姿を学んで欲しかったために、甚だ迷惑だと言ったのかと思います。
仏教も神道もどちらがいい悪いではなく、ご冥福を祈るのであれば、仏教の言葉でも神道の言葉でも同じことであり、肝心なことは、亡くなった子供にその意味が通じるのか、また霊界とは異なった教えを子供に教えていないか、ということだと思います。所属によって近道があるわけでもありません。
亡くなったからと言って、知らなかったアラブ語を子供が理解できないのと同じで、お経も本人が生前に学んでいないのであれば、その意味を理解することも、意味をなすこともないと言われています。
「お経が止み、清らかな祝詞の声がひびいてきた」とあるのは、幼い子供が親の夢枕に立ち、メッセージをもらったことで、両親の冥福を願う言葉に変化があったのではないでしょうか。
霊界は、仏教や神道にもさまざまな教えがあり、人によって等差があると言います。どちらがいいか悪いかではなく、子供には霊界に沿った教えを説きたいと、守護霊の願いが込められていたのだと思います。