人の道
空海の求めた道
時の人となりその生涯を終えた空海こと弘法大師、仏僧の中にあって卓越した知能、見識を備えた人物で、自らの道を求めて、過酷ともいえる人生を歩いた。その人物の心をどのように伝えたらよいかと言えば、身を清め心を磨くにあたって、自分自身に克つために自らを責め、天に即心して意志強固、他者に真似ができない強靭な心を貫き通した。
唐に渡って幾十年、自分が求める道に研鑽、ついに自分の境地を開いて心を磨くため、ある時は天を仰いで教えを乞い、黙々と静寂の中、日々の行いを省みて軽薄な挙動は用いなかった。また仏陀の導きに従い、天上に如何にして身を処したらよいのか、問いかけてきたこともあったといわれる。
多くの人々には、空海の意とする趣き、行いについて、定かに理解するのに難しい点があると思われるので記述するが、子供の頃よりもの心がつき始め、数学に関心を寄せていた。然し自分の考えと違った道を与えられ、自分の意志に反し仏門に入る結果となった。
同僧の仲間の多くは我欲に走ったが、空海はそれ等の者達とは反対に、身を謹んで自らの道を求めるべく、自からの身を天に委ねていたことは何人も知らない。それは我陵即ち天上だけが知っていることであって、俗世では同僧についてさまざまに脚色して伝わっているが、時には心が荒れて乱れたことが数回あったが、自分自身で邪心を払い除け、清明潔白な心を持ち続けていたと聞き及んでいる。
空海は門弟の僧侶達に、
「人は皆、天より平等に生命を授かっているが、人格が各々異なっているのはどうしてであろうか」と質問したが、その問いに答へられる者はいなかった。
又空海は
「自分等は仏門に身を置いているが、仏教は天地自然の教えであると考えるべきである。世の中にはさまざまな宗教があるが、教義は一つである。疑問に思う点が生まれたなら、自分の心に問い、よく考えるとよい。人は人を教導することがあるといっても、自分の考えが入ることが常である。お釈迦様とて、自分の心を省みることを忘れることがなかった、と聞いている」と説いている。
次回は、3月16日(水)「人の道 道元と本覚(あじゃり)の求めた道」についてお話します。