心の指針(二)
心の実態 前編
人を愛し人を慈しむ心は万人に必要であり、父母を敬い我が子を愛する慈愛の心は、人として最も尊い人としての道を備える大切な道であるが、己の立場を知らないで無闇に愛を寄せることは、愛を与える者だけでなく己のためにもならない。
釈迦、イエスキリスト、孔子にしても人の心を見極めた上で己の愛を分かち、天の定めに従い、人々に恵みのある慈愛を施していた。然し人を慈しむ心を懐いているとは言っても、無闇に人に思いやりを寄せることはせず、厳しい姿勢を保ち、相手の心を見極めた上で己の愛(教えを示す)を分かち、自らの生涯を貫き通して幕を閉ざした。
日常己の心を整えて自らの行いを反省したなら、己自身は何を求めようとしているのか、振り返り振り返り鑑みる必要がある。徒に自分な勝手な考えを張りめぐらせたとしたなら、試行錯誤して自らの心を傷つけ、気持ちを安定させた状態を保たすことは出来なくなる。心を求めるにあたっては、先ず人としての資格を備えた心を培うことを始めとする。
人を知り己を知ることが大切で、人の心を疑う心を宿したとしたなら、邪心の基となる自我を秘める事となる。そうした意味の上からも心を鏡に映して見るように、日々の行いを反省して心身を清めるべく身を謹み、心の働きを専ら活用することが肝要である。
己の考えで物事を取り計らうとする際、総てが己の意の儘に押し進めようと考えたとしたなら、他者の心を傷つけるだけでなく、己の心に自我を生み、先々自我を捨て去るのにかなりの時を要し、その償いに己の心は苦痛に苛まされることを知って置くべきである。
様々の障害を乗り越えて、自らの最終の目的地(霊界)に辿り着いた時始めて、心の大切さを知るのが常で、その障害となる自我と欲望を払い除けようとしても、肉体的働きを現実としてきた人々にとっては、俗世での思考を捨去することはなかなか難しいであろう。
何故精神の高揚と言う言葉が生まれたのであろうか、心の安定は肉体を健康に保たさせるものであることを認識せず、多くの人々は心を求めることより、健康に重点を置いている向きが強く、確かに健康を大事に慮ることは大切であるが、人間に宿る心とは人々にとって如何に掛けがえがないものであるか、改めて再考の余地があるのではないだろうか。
遠来の友達と語り合って旧知を温め、懐古の思い出を偲んで時を過ごすにしても、お互いの心が合致しなかったなら、意味がなく無駄な時間を費やすだけで、侘しい心を抱いたまま別れるのが常である。
然しお互いの心が通じ合うとしたなら、時間が経過するのも早いし、別れるに際しても惜別の情がこみ上げ、再び会うことが出来る楽しい日の喜びを、互いの胸中に残すことになるのは語るまでもなく、これは心の働きの一つの現れである。