【自動書記】心の実態 1-5

心の指針(二)
心の実態 前編
人を愛し人をいつくしむ心は万人ばんにんに必要であり、父母をうやまい我が子を愛する慈愛じあいの心は、人として最もとうとい人としての道をそなえる大切な道であるが、己の立場を知らないで無闇むやみに愛を寄せることは、愛を与える者だけでなくおのれのためにもならない。

釈迦しゃか、イエスキリスト、孔子こうしにしても人の心を見極めた上でおのれの愛を分かち、天の定めに従い、人々に恵みのある慈愛じあいほどこしていた。しかし人をいつくしむ心をなついているとは言っても、無闇に人に思いやりを寄せることはせず、厳しい姿勢を保ち、相手の心を見極めた上で己の愛(教えを示す)を分かち、自らの生涯をつらぬき通して幕を閉ざした。

日常おのれの心を整えて自らの行いを反省したなら、己自身は何を求めようとしているのか、振り返り振り返りかんがみる必要がある。いたずらに自分な勝手な考えを張りめぐらせたとしたなら、試行錯誤しこうさくごして自らの心を傷つけ、気持ちを安定させた状態をたもたすことは出来なくなる。心を求めるにあたっては、ず人としての資格を備えた心をつちかうことを始めとする。

人を知り己を知ることが大切で、人の心を疑う心を宿したとしたなら、邪心じゃしんもととなる自我をめる事となる。そうした意味の上からも心を鏡に映して見るように、日々の行いを反省して心身を清めるべく身をつつしみ、心の働きをもっぱら活用することが肝要かんようである。

おのれの考えで物事を取り計らうとする際、すべてが己の意のままに押し進めようと考えたとしたなら、他者の心を傷つけるだけでなく、己の心に自我を生み、先々自我を捨て去るのにかなりの時をようし、そのつぐないに己の心は苦痛にさいなまされることを知って置くべきである。

様々の障害を乗り越えて、自らの最終の目的地(霊界)に辿り着いた時始めて、心の大切さを知るのが常で、その障害となる自我と欲望を払いけようとしても、肉体的働きを現実としてきた人々にとっては、俗世ぞくせでの思考を捨去すてさりすることはなかなか難しいであろう。

何故なぜ精神の高揚こうようと言う言葉が生まれたのであろうか、心の安定は肉体を健康に保たさせるものであることを認識せず、多くの人々は心を求めることより、健康に重点を置いている向きが強く、確かに健康を大事におもんぱかることは大切であるが、人間に宿る心とは人々にとって如何いかに掛けがえがないものであるか、改めて再考さいこう余地よちがあるのではないだろうか。

遠来えんらいの友達と語り合って旧知きゅうちを温め、懐古かいこの思い出をしのんで時を過ごすにしても、お互いの心が合致がっちしなかったなら、意味がなく無駄な時間をついやすだけで、わびしい心を抱いたまま別れるのが常である。

しかしお互いの心が通じ合うとしたなら、時間が経過するのも早いし、別れるに際しても惜別せきべつじょうがこみ上げ、再び会うことが出来る楽しい日の喜びを、互いの胸中きょうちゅうに残すことになるのは語るまでもなく、これは心の働きの一つの現れである。

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