心の指針(一)
心の旅立ち
溪谷より流れ出た泉は、清く澄んだせせらぎとなって川を形成し、豊かな流れとなって海洋に注いで行けば、紆余曲折しながも海洋に注いでいる水もある。中には流れ行く先を誤り湖沼に入って徒に時が経過し、一部の水は悪臭が漂う沼に入り、二度と川の流れとして海洋に辿り着けず、蒸発して跡形もなくなるのは、人々の人生行路の一端を物語っているかのようである。
人は千差万別とよく言うが、人の心は百花乱草の一つの草花と言えるように、短時一片の生活を送る中で、何を求めるべきかと言えば、心を清めるために修行することである。俗世とは元来汚れが多く儚いものと言われているように、人各々に宿る心が磨かれるように、互いに競い合うように仕組まれているのが現世である。
心と人間の体は一心同体と言われているように、五体は心の支配下に置かれていることもあって、心の育成の善し悪しが大きく関係し、一時の自我や欲望の邪心に心が誘惑されると、思わぬ災禍が待ち受けている道に引きずり込まれることになる。
従って正しい心の扉を開くには、身を慎み明るく清らかな心を備えるようにすることが肝要で、そのためには修行が大切になる。修行とは己自身に克つための便法であり、野山を駆けめぐり、冷水を浴びるなど荒行苦行に身を痛めたり、孤独の環境の中で自然と向き合って過ごすのも一理あるが、過去から現在までの日々の己自身の過ちを、全て洗いざらしに事細かく思い浮かべ、例え幾ら心が苦しみに責め立てられようとも途中で止めることをせず、数度となく反省を繰り返していくにつれ、最初のような胸苦しさは徐々に薄れ、なんとなく心が軽くなった気分になることを、知らず知らずに身に覚えるようになる。
自らの誤った考えや行いについて、安易に償えると思っているのが一般的な人々の常であるが、染みが付いた白い布地の汚れを払拭するのに、時間と労力を必要とするのと同様に、心の底に堆積させた汚れは、なかなか拭い切れるものではない。
人は間々心変わりをすると言われているが、筆者の経験した事実をもとに記述する。
ある日駅の階段を上った時の事である。体は何となく浮いたようにふわふわして、足元が定まらないような感覚にとらわれた。仕事のことの絡みもあり意識もせずにいたが、歩いている時も同様、就床していても起床しても体が浮いたような状態を、はっきりと意識するようになった。そうした状態が数ヶ月続いたかと思うと止み、又数ヶ月して体験し、その後一年か二年体が浮く状態が長く続いた。
そうした事があってか、突然ある日の明け方「起きよ、起きよ」とばかり眠っている己の顔面に、多くの漢字がまるでぐるぐると渦を巻いて現れた。己は起きないわけにはいかず、紙と鉛筆を手にして机の前に座った。すると何処ともなく頭上から「千変万化之を憂ふ」との始まりで言葉が伝わってきた。
初めは何が何やら伝えらてくる言葉の内容は勿論のこと、字さえ分からず書き留めるのに精一杯の状態が毎日続き、何時しか徐々に全部とはいかないが、ある程度の文の趣意を解せるようになった。その後のことに就いては省くことにするが、己の心が一変したことを自覚するようになったのは、その後になってからのことである。
昔暴力を振るった人物が穏やかになった事実を、直接対面して聞いているが、これは心の働きの現れによるものであって、心が一時的に錯乱状態に置かれたり、何も頭に浮かばなくなる場合は、己の心ではない他の心(霊)が体に入り込んだ他動的働きによるものである。