本読み・仏は慈しみの父であり 悲みの母である

 2019年12月28日(土)の満福寺ヨーガ教室では、「仏は慈(いつく)しみの父であり 悲(あわれ)みの母である」というお話に、私の感想を加えてお話をさせていただきました。
(出典:『新々みちしるべ』pp.15-19)

 釈迦族(しゃかぞく)の王子として生まれた釈尊が、そのまま王宮にとどまって国王となっておられたなら、仏教は成立していなかったでしょう。釈尊は二十九歳の年、王子の位を捨てて出家者となり、三十五歳の十二月八日、真実の自己に目覚めて仏陀(ぶった)となられたのでした。仏教の歴史は、この釈尊の「さとり」という体験から始まったのです。しかし、もし釈尊が、その体験をひとり喜ぶのみであり、誰にも語ることもなく生涯を終えられたなら、やはり仏教は成立していなかったでしょう。
 
 釈尊のさとりが「智慧(ちえ)の完成」であるとすれば、教えを説かれたことはその智慧が「慈悲」としてはたらき出したということです。最初の説法を聞いた五人の修行者が弟子となり、さらに六十人ほどの帰依者(きえしゃ)が集まったころ、釈尊はより多くの人びとに教えを伝えようと決心して、次のように述べられます。

 修行者たちよ、私はこの世のあらゆる束縛(そくばく)から解放された。なんじらもまた、あらゆる束縛から解放された。今こそ伝道の旅に出かけよ。多くの人びとの安楽のため、利益(りやく)のため、幸福のために。

 私たちは、この言葉の中に、「多くの人びとの安楽のため、利益のため、幸福のために」という表現があることに注意しなければなりません。それは、「智慧の完成者」である「仏陀」が、同時に「慈悲(じひ)の具現者(ぐげんしゃ)」であったことを意味しています。

 「慈悲」とは、古代インドのサンスクリット(梵語)で、「マイトリー」「カルナー」という言葉を合して漢訳したものです。日本語の「慈しみ」「悲み」という表現は、何か高い立場にある者が、弱い者に対して「気の毒に思う」といった程度の感情だと受け取られがちですが、原語の意味はそうではありません。 

 「マイトリー」とは、もともと「友情」「同志」を意味する言葉で、相手と同じ立場に立って思いを共有することです。また、「カルナー」の原意は「呻(うめ)き声」という意味とされ、誰かが苦しみに呻いているのを見ると、同じように自分も苦しくなるということです。このような意味では慈悲とは「与楽抜苦(よらくばっく)」の心、すなわち、自らの喜びを他に与えるとともに、他の苦しみを抜こうとするはたらきをいうのです。 

 表題の聖句にいう「仏」とは、歴史の話として受け止めれば釈尊その人を指しているとも解釈できますが、それだけではないようでしょう。智慧の完成を求めて生まれた釈尊の人格を通じて明らかになった真理そのものが、時空を超えた仏の慈悲として届いていることに出会えるのです。

【感想】
 釈尊は自分の喜びが相手にとっての喜びになるか悩んだ末に、「多くの人びとの安楽のため、利益のため、幸福のために」自身の教えを伝えたとあります。

 お話にあるように、世のため、人のためになりたいという動機で日々行動していくことが大切です。そのような自分の損得感情から離れた行いは、自然と人の喜びへと繋がります。そして、相手の苦しみを取り除き喜びを与えようとする行いは、結果的に自分の心をも喜びで満たしてくれると思います。

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