本読み・善にほこらず物と争わざるを得とす

 3月23日(土)の満福寺ヨーガ教室では、「善にほこらず物と  争わざるを得とす」というお話に私の感想を加えてお話をさせていただきました。
(出典:『みちしるべ 正思惟』pp.94-98)

 人のために何かをすることは素晴らしいことである。自分のためなら何でもするが、なかなか人のためにはできないものだ。

 人のことなどかまっていられない。自分のことだけで精いっぱいだと言う人も多い。しかし、それは誤りだと思う。人のため、人をかまわなければいけないのである。なぜなら私たちはみな、互いにつながり合い、かかわり合いながら生きているからである。

 私たちの先輩は、時には仲間同士、喧嘩したりしても、深いところでつながりを意識し、たすけ合ってきた。その素晴らしさは、自然の営みとしてなされるからである。

 恩に着せたり、恩を売ったりするものであったら、それだけでいやになる。善をほこらないというのはこのことである。しかし、私たちは人に何かをしてあげるとすぐ、そのしてあげたことにとらわれる。

 つまり、善いことをすることへのとらわれである。その心が行為をだいなしにしてしまう。私たちが善とか、賢い、正義といったことを主張すると、そこには争いが生まれる。私の善は必ずしも他人が善と認めるとは限らない。私の正義はあなたの正義ではないからである。

 このことを自覚し合わないと争いは限りなく続くであろう。しかし、この誤りが自覚されると心が開かれてくる。他を認める世界が生まれてくる。そこには争いはない。    

 善きことをしてそれをほこらず、そのしたことを捨てる。喜捨(きしゃ)という言葉を私は尊いと思う。したことにとらわれず、してもらったことに深い感謝の思いを持続させるところに真の喜びと明るさがある。

 手を差し伸べた人が、支援を受けた人に合掌している僧の姿があった。それをしてあげたということではなく、させてもらったことに対する喜びの表明であろう。実にさわやかであった。

(感想)
 お話の中で、「自然の営み」という言葉が出てきましたが、自然にあるすべてのものは、自らの善をほこらず、結果を求めずにその瞬間瞬間を生きています。そして、すべてのものがこのようなあり方であるからこそ、そこには調和が生まれ、世の中が成り立っているのだと思います。私たちは日常生活の中で、時にはいろいろなものと調和を保てなくなってしまうことがあります。
そんな時は、今回のお話にあったように、自分の善を押し付けず、周りの人やものを受け入れる。見返りの気持ちを無くし、相手への純粋な思いから行動をする。このような心をもう一度思い出し、そこからまた一つひとつ実践していくことが大切だと思います。 

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