本読み・笑う門には福来たる

 3月9日(土)の満福寺ヨーガ教室では、「笑う門(かど)には福来たる」というお話に私の感想を加えてお話をさせていただきました。
(出典:『新々みちしるべ』pp.125-129)

 人は悲しいことがあったら泣くのでしょうが、泣いているうちにいよいよ悲しくなるということもありそうです。同じように、何かうれしいことがあってこそ笑うのでしょうけれども、何かにつけて努めて明るく笑い飛ばして生きる人には、おのずから福が訪れるということもありそうです。表題のことわざは、そうした人生の経験を踏まえて、なにごとも明るく笑って過ごそうと勧めたものでしょう。

 釈尊は、しばしば弟子たちによって「世尊(せそん)」と尊称(そんしょう)されています。その原語の「バガヴァット」は「幸いある人」という意味です。釈尊は常に、にこやかに微笑みをたたえ、弟子たちの目にも幸せそうに見えたのでしょう。

 それは、釈尊の人生に悲しい出来事がなかったということではありません。釈尊の出身である釈迦族は、隣国の王のために滅亡しています。また、釈尊が最も信頼を寄せていた弟子の舎利弗(しゃりほつ)と目連(もくれん)は、釈尊より先にこの世を去ったと伝えられています。しかし、こういった悲しい出来事をも静かに受け入れ、釈尊は常に微笑みをたたえた「幸いある人」だったのです。

 詩人であり童話作家として知られる宮沢賢治の手帖(てちょう)に残されていた「雨ニモマケズ」という詩は、最初の部分だけを読むと、いかなる辛苦(しんく)にも負けず頑張って生きていけという励ましのようにも感じられますが、続けて読めば、すぐにそうでないことに気付きます。

 雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾(よく)ハナク 決シテ 瞋(いか)ラズ イツモシズカニ ワラッテイル

 賢治は、自分の人生に起こるあらゆることに対して、自分の思い通りにしようとする欲を捨て、思いがかなわないからといって怒ることなく、すべてを受容して、「いつも静かに笑っている」ような人間でありたいといっているのです。

 それは、「あらゆることを自分を勘定に入れずに、よく見聞きし、解り」という智慧から生まれる生き方であり、悲しみ苦しみを抱えた人びとの悩みに共感する慈悲の生き方でもあります。そして、それが決して賞賛されることを望まず、むしろ「デクノボー」と呼ばれることを望んでいるところに、仏教者としての賢治の真骨頂(しんこっちょう)が示されていると思います。

 ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ 
この詩の最後の一節は、人間にとって幸福とは何かということを、私たちに鋭く問いかけているように思われてなりません。

(感想)
 笑うということは、そのものを受け入れるということだと思います。怒りや、悩み、苦しみは、ものごとを受け入れられない心から起こります。すべての現象を、必然であり、今の自分に必要なこととして受け入れることができれば、釈尊のようにどんな時でも微笑んでいられると思います。そして、その笑顔を見た人の心も和み、周りのみんなの笑顔にもつながります。いつも笑顔でいることで、自分の笑顔が周りの笑顔につながり、周りの幸せが自分の幸せになると思います。

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