心の指針(四)
故人の旅立ち
故人との永の別れに際して、口では表現が出来ない慕情がこみ上げ、涙を流し心生の世界に旅立つ人(心)を送るのも、人々には心があればこそである。然し死者との別れの際して何時までも名残を惜しんでいると、新たな旅立ちをする者の袂を引っ張るようになり、仏生となる道を妨げる結果になる。
そうでなくても死者にとっては、俗世に残された家族のことなど思いが捨てきれない者が多く、俗世と余り変わりがない情景の、霊を見習い期間とも言える地に辿り着いたこともあって、既に肉体がなく心のみとなったことを自覚し、納得するまでに不必要な時を過ごす者がかなり多い。
故人の冥福を願うのであるなら、心が清らかでなかったなら、死者にとっては何ら修行の励みとはならず、況して死者に恨み辛さなど愚痴を訴えたなら、心の安らぎを求めて、修行の旅路に赴く者の道を阻むことになり、言い換えれば、成仏しようとする者の邪魔を、することになる意味合いからも、平素人に頼らず、己のことは己自身で身を修めるべく、行いには責任を以て対処することが大切である。
俗世の人々にとっては当然の事であるが、心生の世界についての知識はない。筆者にしても様々な霊体験を重ねてきたが、天上との想念により教導を受けなかったとしたなら、他の人達と同様に心生の世界の一片さえ、認識し得なかったことは述べるまでもない。
視覚で確認出来ないことは、信じられないのは世の中の人々の常であるが、そうとは言っても、俗世の常識の誤りを考査し改めるべき点が多々あることは否めない。
幾ら現代科学の枠を結集させたとしても、心象の実態については全く無智無盲と言ってもよいのに、頭から霊の存在を否定して信じようとせず、如何にして高度の知識を備えていると言えるであろうか。
先にも述べたことであるが、人は死ねば皆直ぐ天国とか極楽に行けると思っているが、何を根拠にそうした言葉が伝えられてきたのであろうか。己等にとって正に自慰的で身勝手過ぎる愚かな考えとしか言わざるを得ない。
故人の新たなる世界の旅立ちを見送るのにあたり、派手に見栄を張り死者を送ったとしても、死者のとっては何ら喜びに値するものではなく、むしろ送る側の根拠のない旧来の仕来に固執して、一部の人間の心の欲望を満たすだけであることを、如何にして理性を以て判断をしないのであろうか。
人々は一般的に常識と言って大事にしているが、反面かなり誤って伝えられていることが数多くある。今回は心生の世界の一端に触れたが、諸氏の正鵠な判断に委ねることにする。
次回は、2022年1月5日(水)「心の指針(四)心の衝撃と変化」についてお話します。