【自動書記】故人の旅立ち 1-13

心の指針(四)
故人の旅立ち

故人こじんとのながの別れに際して、口では表現が出来ない慕情ぼじょうがこみ上げ、涙を流し心生の世界に旅立つ人(心)を送るのも、人々には心があればこそである。しかし死者との別れの際して何時までも名残なごりを惜しんでいると、新たな旅立ちをする者のたもとを引っ張るようになり、仏生ぶっしょうとなる道をさまたげる結果になる。

そうでなくても死者にとっては、俗世に残された家族のことなど思いが捨てきれない者が多く、俗世とあまわりがない情景じょうけいの、霊を見習い期間とも言える地に辿り着いたこともあって、既に肉体がなく心のみとなったことを自覚し、納得するまでに不必要な時を過ごす者がかなり多い。

故人の冥福めいふくを願うのであるなら、心が清らかでなかったなら、死者にとっては何ら修行のはげみとはならず、して死者にうらみ辛さなど愚痴を訴えたなら、心の安らぎを求めて、修行の旅路におもむく者の道をはばむことになり、言い換えれば、成仏じょうぶつしようとする者の邪魔を、することになる意味合いからも、平素へいそ人に頼らず、おのれのことは己自身で身をおさめるべく、行いには責任をもって対処することが大切である。

俗世の人々にとっては当然の事であるが、心生しんじょうの世界についての知識はない。筆者にしても様々な霊体験を重ねてきたが、天上との想念により教導を受けなかったとしたなら、他の人達と同様に心生の世界の一片さえ、認識し得なかったことは述べるまでもない。

視覚で確認出来ないことは、信じられないのは世の中の人々の常であるが、そうとは言っても、俗世の常識の誤りを考査こうさし改めるべき点が多々あることは否めない。

いくら現代科学の枠を結集させたとしても、心象しんしょうの実態については全く無智むち無盲むもうと言ってもよいのに、頭から霊の存在を否定して信じようとせず、如何いかにして高度の知識を備えていると言えるであろうか。

先にも述べたことであるが、人は死ねば皆直ぐ天国とか極楽に行けると思っているが、何を根拠にそうした言葉が伝えられてきたのであろうか。己等にとって正に自慰的じいてきで身勝手過ぎるおろかな考えとしか言わざるを得ない。

故人の新たなる世界の旅立ちを見送るのにあたり、派手に見栄みえを張り死者を送ったとしても、死者のとっては何ら喜びに値するものではなく、むしろ送る側の根拠のない旧来の仕来しきたり固執こしつして、一部の人間の心の欲望を満たすだけであることを、如何にして理性をもって判断をしないのであろうか。

人々は一般的に常識と言って大事にしているが、反面かなり誤って伝えられていることが数多くある。今回は心生の世界の一端に触れたが、諸氏しょし正鵠せいこくな判断にゆだねることにする。

次回は、2022年1月5日(水)「心の指針(四)心の衝撃と変化」についてお話します。

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