心の指針(二)
心行一体
人間は肉体的な働きによって、地球上で生存していることもあって、全て視覚により確かめることが可能で、結果を見い出すことが出来ることを現実の問題として考えているだけに、俗世の認識を妥当として思考を重ねていると、世の中の移り変わりに対応していくだけで視野が狭くなり、俗世の人々にとっては、未知な心の扉を開く糸口を摑むことが出来なくなる。そうすると人間本来の素養を形成する上から阻害となる、俗世での自我と欲望の邪心に心が突き動かされる結果、人々が備えるべき本来の正しい思考はねじ曲げられ、心は正常な働きをしなくなるものである。
現世の人々の思考は尽きることがない野望を募らせ、経済を重視して自然破壊に繋がる行為を省みず、無闇に文明開化を唱え消費生活に酔いしれて、人間として備えるべき道を忘れ、心の礎となる真摯の道を辿らず、身勝手な振る舞いを用いている人々が多く見受けられるが、先々の己達の進むべき道についてどのように考えているのであろうか。
人々の間では一様に「死ななければ分からない」と言って、心の働きは如何に人々にとって深い関わりがあるのか、真剣になって考えようとせず、生活に潤いを持たせることを優先的にしている、俗世の習慣を正しいものとして、従来からの風俗習慣の誤りを反省して是正することを考えず、無闇に俗世の常識を正しいものとして受け入れているが、それでは心の働きより遠ざかっていると言っても差し支えはない。
仏陀の心は慈悲の心であると解釈して考えている人々、それは己自身の弱い心を自分自身で慰めようとしている思考によるものであって、仏陀とは厳しさに徹している中に慈愛溢れる心である。尊厳無比と言われている仏陀の導きの心に、一歩たりと近づく道を辿ろうとするのであるなら、時の流れの中で身を謹み、心行一体となって修行に励み、時や場所を選ばず、各宗教宗派に拘泥せず不必要な認識は懐かず、ひたすら己の心に基づいて正しい道を歩み続けたならば、人としての備えるべき条理は判然になるものである。
徒に偶像を崇拝して己の心を省みなかったとしたなら、一文の金銭で百の銭を得ようとする考えのように、心の尊さを弁えていても心の働きとは如何なるものであるのか知らず、一文の銭で百文の銭を得ようとする、独活の大木地に根づかずして倒れるのと同様である。