【自動書記】心行一体 1-8

心の指針(二)
心行一体しんぎょういったい
人間は肉体的な働きによって、地球上で生存していることもあって、全て視覚により確かめることが可能で、結果を見い出すことが出来ることを現実の問題として考えているだけに、俗世ぞくせの認識を妥当だとうとして思考を重ねていると、世の中の移り変わりに対応していくだけで視野がせまくなり、俗世の人々にとっては、未知な心の扉を開く糸口をつかむことが出来なくなる。そうすると人間本来の素養そようを形成する上から阻害そがいとなる、俗世での自我と欲望の邪心じゃしんに心が突き動かされる結果、人々が備えるべき本来の正しい思考はねじ曲げられ、心は正常な働きをしなくなるものである。

現世の人々の思考は尽きることがない野望をつのらせ、経済を重視して自然破壊に繋がる行為をかえりみず、無闇むやみに文明開化をとなえ消費生活に酔いしれて、人間として備えるべき道を忘れ、心のいしずえとなる真摯しんしの道を辿たどらず、身勝手な振る舞いを用いている人々が多く見受けられるが、先々のおのれ達の進むべき道についてどのように考えているのであろうか。

人々の間では一様に「死ななければ分からない」と言って、心の働きは如何いかに人々にとって深い関わりがあるのか、真剣になって考えようとせず、生活にうるおいを持たせることを優先的にしている、俗世の習慣を正しいものとして、従来じゅうらいからの風俗習慣の誤りを反省して是正ぜせいすることを考えず、無闇に俗世の常識を正しいものとして受け入れているが、それでは心の働きより遠ざかっていると言っても差し支えはない。

仏陀ぶっだの心は慈悲じひの心であると解釈して考えている人々、それは己自身の弱い心を自分自身でなぐさめようとしている思考によるものであって、仏陀とは厳しさにてっしている中に慈愛じあいあふれる心である。尊厳無比そんげんむひと言われている仏陀の導きの心に、一歩たりと近づく道を辿たどろうとするのであるなら、時の流れの中で身をつつしみ、心行一体しんぎょういったいとなって修行にはげみ、時や場所を選ばず、各宗教宗派に拘泥こうでいせず不必要な認識はいだかず、ひたすら己の心に基づいて正しい道を歩み続けたならば、人としての備えるべき条理じょうり判然はんぜんになるものである。

いたずら偶像ぐうぞう崇拝すうはいして己の心を省みなかったとしたなら、一文いちもん金銭きんせんで百のぜにを得ようとする考えのように、心のとうとさをわきまえていても心の働きとは如何なるものであるのか知らず、一文の銭で百文ひゃくもんの銭を得ようとする、独活うど大木たいぼく地に根づかずして倒れるのと同様である。

次回は、12月1日(水)「心の指針(二)自然と人類」についてお話します。

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