心の指針(二)
心の実態 後編
人々は己の心は如何なる働きをしているのか認識もしていないのに、どうして心を大事な用語として、一般の認識として多く使用しているのであろうか。その謂われについて解明しようとしている人は、現在幾人いるであろうか。
己だけが現在に只一人置かれたとしたなら、人間誰一人として地球上で生存することが出来ないことは周知のことであろう。そうした考えより己の姿を振り返り見つめたとしたなら、前にも振れたが人々の対話は如何に大切であるか、今更述べる必要はないことである。己の心では許されないとしながらも、己の思考行動を抑えて、相手の立場になって対応したとしたなら、そこにはお互いの意思の伝達が計り得られるようになって対話が生まれ、和気あいあいとした環境が築かれるには語るに吝かでない。
人々の中には各々、己に似た同一な考えを抱いているように思いがちであるが、人々の心は千差万別で色とりどりの視覚を持っているように、明るく清らかで鮮やかな色であっても、少しずつ異なるところがあれば忌避するのに等しい色、俗世に例えるなら無芳良色なる花が入り乱れて咲いているように、多くの人々の心は悉く一様ではない。
イラクにあるイスラム教シーハ派の発祥の聖地ナジャフは、現世では各々の国情の自我が露骨に現れるようになり、争って自然崩壊に繋がる愚挙に走らせた人々の心は、幾ら時の流転の中に左右されているとは言え、欲望や自我の邪心が大きく関わってきたことが要因になっていることは否めない。
自然の崩壊の原因を糾すとしたなら、人々の欲望、自我の現れに基づかないものは一つとしてない。一物もない己の姿を思い浮かべたとしたなら、どうして外見的に見栄を張り、容姿容貌を飾り立てることを考える必要があるだろうか。身だしなみを整えることは己自身の身を引き締めるのに必要ではあっても、過度に虚飾包容することは、心を磨く上では関係がないばかりではなく、己を優位に保たさせようとする、優越的な思考を心に生まさせる結果になって、自我の赴く儘、疑心、執着、奢り、高ぶり、人を卑下するなどの邪心を自らの心の中に誘い、心本来の正さには勝てなくさせるのであえる。