心の指針(一)
人生行路
人生の道を歩み無事に一生を送って往くには、心の良いパイロットを得るか否かで、大きな違いが生まれてくるものである。そんなことは預かり知らぬと考えたなら、先々如何なる道に迷い込み、後悔しても遅いことを如実に知ることになるであろう。
「礼なくして如何にして人と言えよう」かと、又「礼に始まり礼に終わる」との言葉が伝えられてきたが、礼儀を大切にする気風は何処に消え去ってしまったのであろうか。年代の若い層を中心に、身勝手な思考と行動が目立って多くなってきているのも、あながち時代の流れとばかり言えず、文明社会の異物とも言える心の乱れの現れ以外にはない。
幾ら世知辛い時の流転に左右されているとは言え、己さえ良ければそれで良いとする邪心の働きが、日を追う毎にはびこりつつ、ある現状、如何にして無事に人生行路を渡り切ることが出来るかどうかは、心の良きパイロットの導き如何で大きく左右されるものである。
心とは己自らの行いによって味方に着けることが可能で、一人の人間として如何なる行いを用いたらよいか過去の己自身の行いを反省し、誤りのある処は是正するように努力したなら、必然と良き心の導きを得て、安全に世渡りすることが出来るようになる。
人としての心の扉を開こうとするに際し、何が特に肝要かと言えば、欲望と自我を消滅させて人に対して節度のある思いやりを懐くことが大切である。具体的には常に相手の立場になって考え、感情に溺れずに対峙する者の話によく耳を傾けることである。
然し濫りに人の心を見極めることが出来ずに、徒に同情心を寄せて対応すると、相手の心に依頼心を生ませる結果となって修行の妨げをし、己にとっても過ちをしたことになる。
取り分け子供の場合には、甘やかして言いなりになっていると、何時しか子供の心に弛みを生ませ、努力心、忍耐力など、人としての大切な心の働きの一部を失わせるばかりでなく、非行に走らせる原因ともなり、自らの心にも真実の思いやりを失わせることになる。身を謹み行いを正すことは口で語ることは易しいが、いざ実行の段階になると事の外難しいものである。人間である以上欲のない者は一人としていないのが世の常である。
人には各々によって異なる金銭、名誉、色情、飽食欲など、様々の欲望が着いて回り、煩悩を生まさせて悩み苦しみの原因となるし、人生行路を無事に乗り越えるにあたり、煩悩の元になる邪心を消滅させる以外には、未来に明光を求めることは出来ない。
人々の心とは、所詮弱いものと定説があるように、表面強気のように構えていても、切羽詰まって己及び周りの人達の力では、如何ともすることが出来ないと、神仏に哀願することが常であるのも、心の弱さを象徴しており、そうした者に限って恩を受けても、礼を以て報いることを知らない者と言えるであろう。
そうした者達は己の心を省みよとせず、人助けをしても見返りを心の中では求めている者であって、心底から思いやりのない、汚れのある心を備えている、己の表面を飾る自己中心的な人物である。こうした者に限って人当たりはよく、キビキビとして人と対応するに当たって好感が持たれたとしても、心ある人の心象は必ずしも良好とは言えない。
心とは人としての人格を育て上げる道に導く反面、邪心は人の弱点を巧みにつついて、味方に引き入れることを知って置かないと、甘い誘惑の言葉につい絆されて、結果的には邪心の思う壷に嵌まり、己の進路を誤った方向に進んで行くようになる。
人は誰でも天上から与えられている進むべき道がある。経済的な豊かさ、社会的地位が与えられていようが、他人を己の立場と照らし合わせて、考えることは避けるべきである。
「一寸の虫にも五分の魂」と諺があるように、総て心に鑑みてのことであって、人の姿を捉えて己の襟を糾すとしたなら、己の心は何を求めようとしているのか、駄馬を飾りたて、名馬に見せ掛けているのと同様、己の心は何処にあるのであろうか。
人には各々微妙ながら異なった才能がある。その鍵を握ることが出来たとしたなら、迷わず努力を傾注して仕事に励む傍ら、心を天に帰一して己の責任を果たすべく、身を謹み襟を正すべきであって、安らぎの道に入る心の扉は自ずから開かれるものである。