本読み・苦は楽の種

 2019年12月16日(月)の満福寺ヨーガ教室では、「苦は楽の種」というお話に、私の感想を加えてお話をさせていただきました。
(出典:『みちしるべ 正業』PP.92-96)

 この諺(ころわざ)については「いま苦労することは、将来の安楽のための種をまいておくようなものである」という解説がなされていますが、もともとは「楽は苦の種、苦は楽の種」と対比的に用いられている諺です。

 この解説では、「苦」が「苦労すること」という意味となっていますが、苦労してもそれが必ず安楽をもたらす種となってくれるわけではありません。どれほど苦労しても安楽とならない人もいれば、それほど苦労しなくても安楽に暮らしている人もいます。苦労すれば報われる社会にならなければいけないというのが正義ですが、そうなっていないのが世間という人間社会の現実です。それに対して、「楽は苦の種、苦は楽の種」という対比的な諺には、深い問いかけが潜(ひそ)んでいるようです。

 そもそも、私たちにとって「苦」とは何でしょうか。「楽」とはなんでしょうか。私たちにとって、「楽」とは自分の思い通りとなって自分の都合のよいことであり、「苦」とはその反対の自分にとって都合の悪いことであるといえます。
 
 そうしますと「楽は苦の種」ということは、そのような自分に都合のよい「楽」ばかり求めていれば、そのことによってかえって「苦の種」を蒔いていることになるということでしょうか。

 それでは「苦は楽の種」というのは、どういうことでしょうか。「苦」の原因が、自分の都合だけを求める私たちの心の闇(やみ)にあることを教えているのが仏教です。その心の闇を打ち破るために、私たちの命はさまざまなご縁によって「生かされている命」であると、釈尊はお説きになりました。この教えによって、ご縁のままに「生かされている私」であることを知ったとき、自分の思い通りに生きようとして、自らに「苦」をまねいている私たちの心の闇が照らし出されます。その時、そこに与えられている安穏(あんのん)・安らぎが、仏教における「楽」です。この「楽」については『無常偈(むじょうげ)』に「寂滅為楽(じゃくめついらく)(寂滅を楽と為す)」と説かれています。自分の都合がけを求めて思い通りに生きようとする心の闇が照らし出され消滅したときに、自然と与えられる「楽」です。
 
 このように、「苦は楽の種」という諺の意味を仏教に基づいて問い、その意味を尋ねてみました。

【感想】
 私たちが普段感謝の心を覚える時とは、多くは自分の望みが叶った時であると思います。一方で、自分の望みが叶わなかった時には、私たちは怒りであったり心が不安定になると思います。

 しかし、そのような時でさえ、自分が頂いているものごとのありがたさを知り、感謝の心を持つことが大切だと思います。ものごとを自分の勝手なものさしで良い縁、悪い縁と分けて一喜一憂するのではなく、計り知れないほど多くのご縁によって自分があることに常に感謝のこころを持つことで、毎日が豊かで穏やかなものになっていくと思います。

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