本読み・原因と結果とをよくわきまえよう

 2019年11月18日(月)の満福寺ヨーガ教室では、「原因と結果とをよくわきまえよう」というお話に、私の感想を加えてお話をさせていただきました。
(出典:『みちしるべ 正見』pp140-144)

 夏を迎えるごとに無量寺(むりょうじ)のかわいい池に、睡蓮(すいれん)と並んで大賀蓮(おおがはす)が美しい花を咲かせる。千葉県検見川(けんみがわ)の落合遺跡から発掘された蓮の種が、大賀博士の努力により二千年の眠りから醒(さ)めて発芽し、みごとに花をつけた。

 何千年という年月をへようと、蒔かれた種は縁が熟すれば必ず結実するという、天地の因・縁・果の厳然たる法則を目(ま)の当たりに見る思いで、思わず衿(えり)を正す。

 仏教の教え、釈尊の教えは一言でいうならば「因果の法則」、もう一歩進めて「因と縁と果の法則」ということができよう。たとえば検見川の遺跡から三個の蓮の実が発見された。そのうちの一個が、大賀博士の適切な対応のもとに発芽し、みごとに花開いた。蓮の実という種さえあれば、必ず発芽し、花開くとは限らない。三個の種自身が持っている力という因に加えて、二千年という長い月日の間に置かれた環境という縁により、更には、大賀博士の努力と、その指導による土や水や太陽など、あらゆる縁に恵まれて一個の実だけが発芽し、やがて開花するという結果を招くことができた。他の二個は、実自身に力がなかったかもしれないが、その他の悪条件が重なり、発芽することができなかったという結果を招くに到ったのである。つまり、因は同じでも縁を変えれば果は変わる。仏教が「よき縁を」と強調するゆえんである。

 仏教はどこまでも自業自得を説く。いかなる事態がおきようと責任を他に転嫁(てんか)しない。自分の責任としてどう刈りとるか。その刈りとり方が次の種まきとなる。よき師よき教えに導かれてよき因をまきつづけていきたい。

「仏教は因果論というけれど、われわれが発言権を持っているのは因だけ。果に発言権はない。よき師のおおせのもと、限りなくよき因を積みつづけるのみ」

【感想】
 私は昔ある方に、「幸が薄い顔だなぁ」と言われたことがありました。今振り返れば、そんな顔になってしまうような環境(因)を自分自身で選択してきたのだと思います。
 
 しかしお話にあるように、私という種自体は変えられませんが、咲く環境や咲くための行動は変えることはできます。大事なのは自分がどうなりたいか、そしてその理想に近づくためには、日々どのような考え方と行動が必要で、どのような反省をしていくのかを考え、実践していくことだと思います。

 全ての選択は自分自身で行っているものであり、自分に返ってきたものは全てその結果であることを忘れないことが大切だと思います。

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