本読み・平常心是れ道なり

 2019年11月9日(土)の満福寺ヨーガ教室では、「平常心(へいじょうしん)是(こ)れ道(どう)なり」というお話に、私の感想を加えてお話をさせていただきました。
(出典:『みちしるべ 正見』pp.22-26)

「さんずい」に「去る」という文字構成から出来ている「法」という言葉は、インドでは「真理」を現す。水は少なくとも引力のある地上にあっては高きから低きに流れる。これは洋の東西を越え、時の古今を越えて変わらぬ真理。時と処を越えて変わらぬものを真理と呼び、「法」という文字で現す。これに対し、時と処によって変わるものは、人と人との約束事で、これを「道徳律」と呼ぶ。

 「平常心是道」という言葉は、中国・唐代の代表的禅僧である南泉和尚(なんせんおしょう)が、弟子である趙州(じょうしゅう)の「いかなるかこれ道」ー道とは何かーという質問に対して答えた一句である。「平常心」とは「平等にして常恒(じょうごう)なるもの」という意味で、平常の心、ふだんの心という意味ではない。つまり天地悠久(てんちゆうきゅう)の真理を目指すものであり、これを「心」と呼ぶというのである。人間の気まぐれな精神作用の心を目指すのではない。したがって、「平常心是道」とは、絶対平等にして永遠不変なる天地の道理、それが人間、私の今ここにおいての歩みゆくべき道、実践道なんだというのである。

「平常心是道」の答えをいただいた趙州は更に「道はどこにあるかと探しにゆくことができますか」と質(たず)ねたのに対し、「探そうと思うと道にそむく」と南泉は答える。「探す」というのは今ここをおいてどこかという姿勢だから。道は、実践は、生きてゆくということは、つねに今ここをおいていないのだから。しかも、気づく、気づかないにかかわらず初めから天地いっぱいのお働きのどまん中にあっての起き臥(ふ)しであり、そのことに気づき、今ここにおいて、たった一度の生命の今を少しでも間違いを少なくし、真実に近い生き方をするだけのことである。

【感想】
 日常生活の中で時に、今目の前にある自分は本当の自分ではなく、他の場所に違う自分や別の道を求めることもあるかと思います。

 しかし、今その道を歩んでいる自分こそが本当の自分であると思います。以前お釈迦様が「人の一生は、一刹那(いっせつな)の長さだけである」と言われました。これは、過去や未来を考えず、今の一瞬一瞬の積み重ねが人生であるという意味だと思います。

 今回のお話にもあったように、私たちは常に今ここにある道を歩き続けていて、その道の中で沢山の学びの機会を頂いています。今の自分を受け入れ、今・ここに思いを込めて生きることで、結果的に他の場所に求めていたものをも手に入れることができると思います。

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