本読み・近くて見えぬは睫

 2019年9月28日(土)の満福寺ヨーガ教室では、「近くて見えぬは睫(まつげ)」というお話に、私の感想を加えてお話をさせていただきました。
(出典:『みちしるべ 正命』pp.50-54)

 「みる」という字はたくさんあります。
 見る・看る・診る・視る・観る。漢和辞典をみると、このほかにも十字余りあります。
 
 「見る」は、この目でものをみる。「看る」は、よくみる。手と目が重なってできています。まぶしいときに目の上に手を乗せるからです。看護師さんは患者さんをよくみることが大切。「診る」は、お医者さんが患者さんをみる。言偏(ごんべん)があるのは患者さんとの対話が大事であるということ。「視る」は、つぶさにみる。「観る」は、深くみる。目にみえない世界をもみるということ。

 このように多くあるのは、漢字の持つそれぞれの意味がちがうことを表しています。

 さて、一番見えないのは、この「自分」です。よく聞くことばに、「自分がつくづく嫌になった」、「自分が分からなくなった」、がありますね。嫌になった、というけれど、まだまだ自分の深いところまでは見えていないのです。分からなくなった、というのも同じこと。自分などというものは、そう簡単に分かるものではありません。分からないからこそ人間は勉強したり、挑戦したり、反省したり、を繰り返しながら生きているのではありませんか。

 ちょっと距離を置くと、ものはよく見えるものです。他人のことをあれこれと批判できるのは、その他人との間に距離があるからです。身近な人ほど批判できなくなり、一番見えないのがこの自分。自分を批判できるようになったら大したものなのです。

 囲碁の世界で「岡目八目(おかめはちもく)」というのは、端で見ている人のほうが先の先まで読める、ということです。

 人間は、他人のことはよく見えるけれど、自分のことはなかなか見えないものです。これを「近くて見えぬは睫」といっています。目の近いところに睫があるのに、自分の目では見ることができません。「灯台、下暗し」というのもそれで、自分の足元さえも見えないのが人間というものなのでしょう。

 お釈迦さまは「深思遠慮(じんしえんりょ)」(深きを思い遠きをおもんぱかる・父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう))することを説かれました。「見えない世界を観る」、この心を大事にしたいと思います。

【感想】
 人は何か問題があると、その原因を求めて状況を分析しますが、そこには自分は含まれていないことが多いと思います。それは、お話にもあるように、周りはよく見えてしまうからだと思います。問題が生じたとき、周りに原因を見つけることではなく、それを問題だと判断している自分の心の存在を知り、自分と向き合うことが大切だと思います。自分をよく見ると、受け入れたくない面も見えてきます。しかし、自分の思い通りにしたいという欲望を知り、そこから離れようと努めることで、ものごとを正しく見ることができ、日々の生活を穏やかな心で過ごしていくことに繋がっていくと思います。

関連記事

PAGE TOP