本読み・握りしめず取らず とどまらない

 2019年6月22日(土)の満福寺ヨーガ教室では、「握りしめず取らず とどまらない」というお話に、私の感想を加えてお話をさせていただきました。
(出典:『みちしるべ正語 』pp.10-14)

 われわれが毎日の暮らしの中で、心静かに生きることができない根本の理由は、何ごとにつけても「執着心」を持ち続けているからだというのが、仏陀の教えであります。われわれはお互いに、この可愛い自分というものに執着して、自分中心の考えを捨てきることができません。   
 
 そのために、その可愛い自分のためになると思うものにしがみつくばかりか、自分にとって都合の良くないと思う状態や物事があると、いつまでもそのことが気になって、苦しみから解放されず、心の安らぎを楽しむことができません。

 考えてみると、このように自分を苦しめているのは、他ならぬこの自分であって、周りの環境や、周りの人びとには何の責任もないのですね。これこそ自分の縄で自分を縛っているのですから「自縄自縛(じじょうじばく)」であり、その縄もよく考えてみればありもしない自分の空想に過ぎないのですから、「無縄自縛」と言った方がもっと正確でありましょう。

 事実をそのままに観察する智慧、つまり「諦(あきら)め」がないので、これを「愚痴(ぐち)」と言うわけですが、これが悲しい人間の性(さが)なのですね。そういう愚かな執着から離れることが、「無執着」であり、それがそのまま苦しみからの解放でありましょう。これをここでは、「握りしめず」、自分の執着を手放すことと説かれています。それはちょうど、担(にな)っていた重い荷物を肩から下ろすようなものと同じです。

 次に「取らず」というのは、手を出さないということであります。必要以上の物を求めることを止め、「唯(た)だ足(た)るを知る」、ということであります。われわれ凡夫の欲望には止まるところがなく、こういう欲望はやはり苦しみにつながるのです。欲を離れることができれば、気持ちはどれほど楽になるでしょう。「人生の価値は、その人がどれほど多くを手に入れたからではなく、どれほど多くを他に与えたかによって決まる」、とさえ言われるゆえんでありましょう。

 最後に「とどまらず」ということですが、これは川の水がさらさらと流れるように、何物にもこだわりのない生き方をせよ、ということでしょう。私たちもできれば、「竹、密にして流水の過ぐるを妨(さまた)げず」というように生きたいものですね。

(感想)
 お話にあるようにほとんどの苦しみや悩みは、自分が可愛いという思いから生まれるのだと思います。 自分が辛いから周りに原因を求めたり、周りのせいにする。周りのせいにするのは簡単ですが、その原因を自分の心がつくり出していることに気づかない限り、その苦しみはずっと続きます。

 大切なことは起きているできごとをよく分析し、自分の感情が乱れる原因を見つけ、自分を守ろうとした感情を手放すことだと思います。 そして、色々な視点から自分を見て、今のままで十分に足りているんだということを知ることができれば、身の周りでどんなできごとが起きても、水のようにとどまることなく穏やかに流れていけるのだと思います。

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