本読み・心ここに在らざれば視れども見えず

 4月27日(土)の満福寺ヨーガ教室では、「心ここに在らざれば  視れども見えず」というお話に私の感想を加えてお話をさせていただきました。
(出典:『みちしるべ 正語』pp.72-76)

    私たちは親にもらった二つの眼で周りの世界を見廻して、なんの不自由もなく暮しています。しかし、私たちは果たしてこの両眼で正しくものを見ているのでしょうか。どうかすると私たちは、虚(うつ )ろな眼で現実を眺め回しているのではないでしょうか。

    陸亘大夫(りくこうたいふ)という役人が南泉普願和尚(なんせんふがんおしょう)と話していた時、南泉和尚が庭先の花を指さし、大夫に向かって「世間の人はこの一株の花を見るのでさえ、夢を見ておるようなものだわい」と言われた。

    たったこれだけの話しですが、禅の修行では、南泉和尚はいったい何を言おうとされたのかという問題について、修行者は師に対して正しい答えを出さなければならないのです。さあ皆さんだったらどのように答えるでしょうか。

    庭先に美しく咲いているバラの花を見ると誰でも「あっ、美しい真っ赤なバラの花が咲いている。あれは、去年、私が花の市場で苗を買ってきて植えておいたものだ」とうれしい気持ちになります。たしかにその通りで間違いない認識です。

    しかし、よく考えてみると、そのような花の認識は、それを見る人の勝手な花の見方であって、花自身は「美しい」とか「赤い」とか、「バラの花」とかいうようなことは知らないでしょう。ただ季節がきて縁が結ばれるままに、無心に花を咲かせているだけです。

    そうすると人間は実際の花そのものを見たのではなくて、花を見て、色とか匂いとか大きさとか、果ては自分が植えたとか、あれこれと心に浮かぶ観念を組み立てているだけなのです。つまり見ているのは花そのものではなくて、自分を見ているのですね。ありもしない観念だけを組み立てているのですから、それは夢に等しい見方ということになるのです。花を見る時は、「花となって見よ」と言われるのは、そういうことであります。

 人間は自分という城を築いて、その小さな窓から世界を覗いているのですから、どうしても自分中心にして世界を遠近法的に見ています。

    自分が綺麗だと思うものは、「ああ美しい」と言い、自分の嫌いなものは「ああ嫌いだ」と顔を背けます。しかしどんなものにもそれ自体に、綺麗も汚いもないのです。それでは正しい物の見方とは言えないでしょう。

    「心ここに在らざれば」というのは、心が自分のエゴから離れて無心でなければ、という教えでありましょう。

(感想)
 お話にある「虚ろな眼」というのは、エゴ、本能、執着、感情などによって偏りのある心の状態だと思います。
たとえば、損得という物差しについて考えてみます。
物事を自分の損になるか、得になるかという眼で見ると、物事を正しく見ることができないだけでなく、結果的に自分だけがよいという判断になり、周りとも調和がとれなくなってしまいます。

 そのため、日々の生活の中で、自然に身に付いた様々な偏りを一つひとつ外していくことが、無心の眼で物事の本質を見ることにつながっていくと思います。

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